夜食日記

分子調理学者。料理・調理のメカニズムを研究する大学教授。著書に『料理と科学のおいしい出会い』(化学同人)、共訳書に『The Kitchen as Laboratory』(講談社)など。分子料理・分子調理ラボ(http://molecular-cooking-lab.net)を主宰。関心は「食×科学×芸術」。

料理だけじゃない、レシピを超えたレシピとは

 調理学を專門としていますが、料理の手順書である「レシピ」を科学史の視点で眺めた本というのは見たことがありませんでした。そんなレシピの学術研究をわかりやすくまとめた稀有な本『英国レシピと暮らしの文化史』が先月出版され、さっそく読みました。

 17世紀、英国の家庭で代々受け継がれきた「レシピ帳」には、料理のレシピにとどまらず、ビールの醸造法から、七面鳥の太らせ方、さらには家庭薬の開発などまでが記載され、一族の貴重な財産でした。名もなき人たちが「家庭の科学」の研究を重ね、近代の科学に大きく寄与していましたことを意味しています。家政学、薬学、予防医学の原点ともいえるでしょう。
 また、レシピ帳が、親が子どもに向けた期待を伝達する手段でもあり、“家族の書”として家族アイデンティティ発達のツールでもあったことは、やや意外でもありますが、納得感のある記述でした。家族に関わるレシピを蓄積する行為は、その一族が何者であるかを形作る手段であったのでしょう。

 食にはいろいろな意味や価値が付随しますが、レシピも同様にたくさんの”タグ“が付けられてきたことを著者エレイン・レオン氏が、膨大なレシピ集からひもといています。巻末の原注の膨大さなどからも、レシピの調査に相当なエネルギーを注いたことがわかります。

 また、翻訳の村山美雪さんの「訳者あとがき」に、この本の魅力をさらに伝える文章がありました。

当時レシピ帳を作成した人々が料理にもまして医療情報の収集や家庭薬作りに熱意を傾けていた様子を見ると、その時代背景も考えずにはいられない。1665年にペストの流行に襲われたロンドンの惨禍を描いたダニエル・デフォー『ペスト』(2009年、中公文庫)の訳者、平井正穂氏の解説によれば、1683年に出たある冊子には過去百年にあいだにおよそ二十年に一度のわりでロンドンにペストが流行し、そのたびに五分の一が命を落としたと書かれていたという。そのように身分や貧富のべつなく、裕福な上流層でもつねに疫病の脅威に晒されていた時代に、本書に登場する大邸宅の住人たちが懸命に医療のレシピを模索し、生きられる喜びを表現するかのようにレシピとともに家族史を綴っていた姿は、奇しくもいま世界中で誰もが同じ感染症を恐れなければならない現代のわたしたちの胸に静かに響く。数百年の時を越えて、筆者が年月をかけ繙いた研究成果から、時代も国も社会環境も異なる人々が現代のわたしたちと同じように日々を慈しんでいた暮らしぶりをご覧いただければ幸いだ。

 レシピを通じて、時代を超えた人の心の重なりを感じる本です。