絶望と希望と願望と宿命―4年目の3.11に思うこと
東日本大震災から4年。3.11後の混乱期に大学に入学してきた新入生が、来週卒業式を迎えます。あの年の講義開始は1ヶ月遅れ、入学式は約半年後の9月末でした。
絶望と希望は表と裏
人が絶望の淵に立たされた時、そこから生きていくためには、希望が必要です。感じた絶望の深度が深ければ深いほど、そこから這い上がるためには、希望の高度は高くなくてはならないでしょう。絶望と希望は、表裏一体で切り離すことができない関係にあります。
おそらく絶望しないと、真の希望というのは持てないのでしょう。平和な時代、安定な社会、平穏な地域ほど、希望は持てにくいものです。満たされていれば、わざわざ希望を抱く必要がないからです。
私たちが年配の方よりも産まれたばかりの赤ちゃんに希望を抱くのは、希望が過去ではなく未来の属性だからです。未来は希望のよりどころです。
社会の関心が、子供やまだ登場していない新しい技術や資源など、未来に関することに集まっているとすれば、それは危険なシグナルなのかもしれません。未来への過剰な期待は、その裏側にある絶望が広がっていることの裏返しであるからです。
二つの未来
未来は、二つあるといわれています。「願望の未来 the future of desire」と「宿命の未来 the future of fate」です。人は、この二つをなかなか分離することができません。
たとえば、地方において、地元でとれる農産物や海産物などを使って特産品を作ろうとする際、地元への愛情や想いが強すぎると、市場における客観的な差別化や販路開拓などの問題点が見えにくくなり、失敗に終わるというケースは少なくありません。人の願望は恐ろしく強力であるため、予測する未来に自分の欲望をごちゃ混ぜにしてしまう事態はよく見かけることです。
願望の未来は、将来に向けた人が放つビジョンでもあり、人が動くにはなくてはならない燃料でもあります。しかしまたその一方で、未来は人の願望とは関係なく不可逆的な宿命としてもやってきます。災害によって家族やふるさとを失った人にとって、その宿命を受け入れることは極めて難しいことは言うまでもないでしょう。
この「願望の未来」と「宿命の未来」をうまく和解することはできないでしょうか。
願望と宿命の共存
科学者が実験をするとき、こうなって欲しいという期待する結果がある場合でも、出た結果に対しては真摯に対処しなければなりません。なぜなら願望を排除することによってはじめて客観的な分析が可能となるからです。科学者の信念は、実験結果に対する願望と宿命を明確に分けることにあるといってもいいでしょう。
たとえ未来が絶望的に思えたとしても、自分の願望がどのようなものなのか冷静になって捉え、将来起こりうる宿命を理性的に考えるという科学者の習性が、震災後の私をいくぶん落ち着かせてくれました。
願望の未来と宿命の未来を分けて考えるのは難しいことではありますが、その試みを続けていけば、願望と宿命はお互いに相互作用し、調和していく可能性があると感じます。
食の未来を考えること
私の研究の専門は、「食」です。従属栄養生物である人間にとって、食べることはその生命を持続させるのに必須であり、生きものとしての「生」に直結します。食は、未来の自分を動かす貯金であります。
また、食べものは、単なる「もの」ではありません。親しい人と食卓を囲むとほっとするように、精神性や社会性を合わせ持っています。
食の未来を通じ、これからも人を考え続けて行きたいと思っています。

必ず来る!大震災を生き抜くための食事学 3.11東日本大震災あのとき、ほんとうに食べたかったもの
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