夜食日記

分子調理学者。料理・調理のメカニズムを研究する大学教授。著書に『料理と科学のおいしい出会い』(化学同人)、共訳書に『The Kitchen as Laboratory』(講談社)など。分子料理・分子調理ラボ(http://molecular-cooking-lab.net)を主宰。関心は「食×科学×芸術」。

レストランでの料理の写真撮影は、なぜ問題なのか?

 レストランなどでの外食時に、料理の写真を撮る人を以前よりもよく見かけるようになりました。

 レストランでの写真撮影に対して、私はほとんど気にならないものの、全く気にならないわけでもないという感じです。レストランの種類などによってもケースバイケースで、印象は大きく違ってきます。

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店での「料理撮影」は何が問題なのか?

 外での料理の写真撮影にモヤモヤっとした感情を抱いている人は、それなりに多くいらっしゃるのではないかと思います。「何が問題なのかわからない」という人ももちろんいるでしょう。

 この料理の写真撮影に関しては、海外では「フード・ポルノ」というセンセーショナルな言葉も登場し、多くの議論が沸き起こっている問題でもあります*1

 「Q. なぜ、レストランでの食事の写真撮影は問題なの?」という質問に対して、「A. そんなの、単にマナー違反だからでしょ」といういう単純な回答で済まそうと思っても、そのマナー自体が国や時代によって変わるので、クエスチョンの背景にある理由の本質があまり見えてきません。

 また、

  • シャッター音が、周りの人に迷惑になる
  • 撮っている間に、料理が冷める
  • 料理の写真が公表されると店側が迷惑する

などの理由に対しても、「じゃ、無音の設定にして撮れば、問題ないよね?」、「撮影する時間なんてほんの数十秒以内なのだから、そんな短時間で冷めるような料理はむしろアメイジング」、「店が撮影禁止しているならまだしも、特に禁止してないのなら、SNSに載せることでむしろ店のPRになるからいいんじゃない」などと容易に反論できてしまいます。 

 しかし、コースの料理が運ばれてくるたびにパシャリ、カウンターで鮨が出されるごとにパシャリしている現場を目撃すれば、やはりスッキリしない感情が貯まっていくことでしょう。

 このモヤモヤ感は、“どこから”やって来るのか?と思います。

美術館での写真撮影禁止の理由

 レストランと違って、日本の美術館や博物館では、原則写真撮影が禁止となっているところがほとんどです。大阪市立東洋陶磁美術館の元館長の伊藤郁太郎さんは、その理由として、以下の5点を挙げています*2

  • フラッシュで美術品を傷めるから
  • 撮影が鑑賞している人のさまたげになるから
  • 美術品を所蔵している人の同意を得ていないから
  • 撮影を自由にすると、グッズの販売上不利益になるから
  • 大事な美術品を気軽に撮影されるのは気分的にそぐわないから

 フラッシュ撮影に対しては、検証実験の結果「フラッシュ撮影を行ってもアート作品を傷めない」と主張する方もいます*3。また、混雑していなかったら、所有者の許可を取っていたら、グッズ販売等に関係なかったら、じゃ撮影がすぐにOKになるかというと、なかなか許可は下りないような気がします。

 特に最後の「気分的にそぐわない」という感情的な理由が立ちはだかると、もはやお手上げです。

 実際に、写真撮影がOKな美術館があって、写真を自由に撮りまくりながら鑑賞したら、おそらく何の作品を観たのか全く記憶にも心に残らないかもしれないと個人的には思います。

 私は、この美術品の写真撮影に対する感情的な拒絶こそが、レストランでの料理撮影への違和感を解くヒントになるのではないかと感じます。

震災時に感じた撮影に対する違和感

 3.11の東日本大震災の時に感じた個人的な体験があります。

 震災後の状況を記録を残そうと、自分の住んでいた部屋の被害やその時食べていた食事などはカメラに収めていましたが、自分の家の外の他人の壊れた家屋や波打った道路など、街の風景はその時どうしても撮れませんでした。今後の防災のための貴重な記録になると理性的には感じていましたが、私の頭で「撮るんじゃないぞ、撮るんじゃないぞ」と写真撮影に対しての強い拒絶反応の声が充満していました。

 その時の心境を振り返ってみると、地震で壊れた家や店舗を撮るという行為が、震災の被害を他人ごとにしてしまうというか、自分と切り離して自分とは関係のない世界にしてしまうのではないかとおそらく感じていたのではないかと思います。

 阪神・淡路大震災で被害の大きかった神戸の被災者の方が、外の地域からきた人が配慮なく周りの写真を撮っている姿を見て、無性に腹立ったというというコメントを何かで見かけましたが、私も3.11の震災後に外部から来た風貌の人が、私の住んでいた近所の被害の大きかった建物などの写真をなにげに撮っている姿を見た時、私も似たような感情が湧き上がっていました。

 カメラを構え、シャッターを切るという行為は、「今いる世界を客観化に捉え、目の前の対象とそこにいる自分を何か別な世界に切り裂く意味合いがあるのだ」とその時強く感じたのでした。

カメラを介することによるコミュニケーションの寸断

 料理人の卓越した技術と客への想いが十分に発揮された料理は、芸術作品となりうるでしょう。

 美術品は、その芸術作品を通して、作った作者の感情を観た人に伝達する性質を持っています。しかし、美術品を観照する際に、写真を撮るという行為が挟みこむと、その場を一度客観化にすることになり、作り手と受け手の間に大きな溝を作ってしまう気がするのです。大げさにいうとコミュニケーションが一度断絶する感じがします。

 それは、芸術作品としての一面を持っている料理も同様で、料理と自分との間にカメラを挟むことによって、作ってくれた人、もしくはその時一緒にテーブルに座っている人との間に亀裂を生じ、料理を介したダイレクトな感情の受け渡しが寸断されてしまうのではないかと感じています。

 それが、私がレストランでの写真撮影でモヤモヤする理由の一つではないかと思っています。

 逆に考えれば、レストランでの写真撮影がより気になる場合は、レストランがより美術館寄りで、料理もアートに近いということなのかもしれません。