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夜食日記

食品研究者が夜中に「食」についてつらつら綴る日記。専門は、分子レベルの「食品学」「調理学」「栄養学」。「クックパッド食みらい研究所」特別研究員。分子料理・分子調理ラボ(www.molecular-cooking-lab.net)を主宰しています。食ほど体と心に影響を及ぼすものはないと思いませんか。

「食の科学」と「食の芸術」は、なぜ軽んじられるのか?

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 「食」は人にとってなくてはならないものですが、「食」の科学は、科学の世界の中で必ずしも重要な学問分野として捉えられていないように感じます。

 「食品学」や「栄養学」を生業にしている私でも、「物理学」や「分子生物学」の方がより“ 高尚”に見えます。おそらく多くの方がそう感じるのではないでしょうか。

 また、芸術の分野でも「食」の芸術、料理の美的表現は、絵画や音楽などを中心としたこれまでの古典的な芸術界からほとんど仲間外れにされてきたのではないかと思います。

 生命にとって不可欠な料理には、重要なサイエンスがたくさん潜んでいますし、料理のおいしさは、他のアート作品に負けずとも劣らない感動を呼び起こすのに、なぜこうも食は、科学や芸術の両方から軽んじられているのか? 食品科学者や芸術家ともいえる料理人への世間のリスペクトが低いのはいったいなんなのか?

 「食」の研究者の一人であり、料理人にひときわ敬意を払っているものとしては、やや憤りを感じながら、そう思っていました。

 食の科学や芸術の両方からの冷遇っぷりの背景には、食には「知性食い」と「感性食い」という二つの性質が混在しているためではないかと思い始めています

 科学の世界において最も重要なことの一つは、そこに「論理」があるかどうかです。「自然現象は物理学的な式で表すことができる」とか「生物の遺伝情報はDNAの構造内にある」など、論理的にバシッと言えることはとても“科学的”です。気分がスカッとします。

 それに対して、食のサイエンスには不確定要素がたくさんあります。身近な例でいえば、「トクホってほんとに効くの?」とか「糖質制限食って、体にいいの?」とか。科学的には何とも歯切れの悪いモヤモヤ感があるでしょう。

 また、「サラダを思い浮かべて下さい」と尋ねれば、各人がイメージするサラダの姿かたちは全く同じではないでしょうし、サラダに対する個人の好き嫌いなどの感情もそれぞれ異なるでしょう。食べものは、ただの「物質」として認識されているわけではなく、必ず各人の「感情」がもれなく付いてきます。

 そのため、食べるということは、食品の機能性を重視した「知性食い」をしようとしても、その一方で自分の感情に基づいた「感性食い」を避けることができない宿命にあります。

 食を論理面でのみバサッと切れない、歯切れの悪いところが、食の科学が科学界で軽んじられる一つの要因ではないかと感じます。

 また、芸術分野における「食」の立場も、逆の意味で同様なのではないかと思います。

  絵画の鑑賞では主に「目」から、音楽鑑賞では主に「耳」からの情報でその芸術美を堪能します。この視覚のみ、聴覚のみというある種限られた感覚器官での体験が芸術鑑賞としては重要であり、また、限定された“非日常”的な体験が、その芸術的高揚にとって重要な要因の一つといわれています。

 それに対して食体験は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という「五感」を使った“日常”の行為であり、食を芸術性として高めるには、あまりにも私たちの生活に自然に存在し過ぎています。

 さらに言えば、食べることは、物質を体に取り入れるという行為であり、食行為には、消化・吸収されなかったものが体外に排泄されるという、芸術にはあまりふさわしくない“なまなましい”イメージも付きまといます。

 食の芸術は、芸術作品として人の感情を震わす「感性」を有してはいるものの、体に取り込む物質情報としての「知性」的要素も色濃くあわせ持っているといえます。

 すなわち「食」は、科学の世界でも芸術の世界でも、「知性」もしくは「感性」のどちらかに特化することができない“コウモリ的立場”であることが、何ともいえない“半端感”を生み出し、それが両世界でともに軽んじられる要因ではないかと私は思うのです。

 ポジティブに捉えるのであれば、「食」は「知性」と「感性」のちょうどよい“ハイブリッド”であり、科学や芸術の両世界で独特のポジションを取りうることができるということでしょう。

 「食」のいろいろな可能性を感じますが、長くなったのでこの辺で。

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