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夜食日記

食品研究者が夜中に「食」についてつらつら綴る日記。専門は、分子レベルの「食品学」「調理学」「栄養学」。「クックパッド食みらい研究所」特別研究員。分子料理・分子調理ラボ(www.molecular-cooking-lab.net)を主宰しています。食ほど体と心に影響を及ぼすものはないと思いませんか。

薄暗い洋菓子店とその店員 〜復興への第一歩にかえて〜

食と震災 食の思い出

東北関東大地震の2日後の3月13日、私と妻は自宅周辺の仙台市太白区長町周辺を歩いていました。歩いていたというよりも、何かしらの情報を求めて“さまよっていた”といったほうが正しいかもしれません。

この震災の死者行方不明者の数が1万人を越すということも、原発の問題が深刻化するということも、まだ十分に理解していなかった頃でした。

地震直後は大学におり、棚から崩れ落ちる本に某然とし、実験室の惨状に唖然としながらも、妻が心配になり、機器のコンセントを抜いた後、自宅に車で帰ってきました。途中の幹線道路の信号はところどころ消え、道は波打っていました。

家に戻ると、自宅のマンションの外壁にも部屋の中にも2メートル超の大きな×のヒビが入っていました。マンションの外側には壁の瓦礫が散乱しており、電気、水道、ガスなどのライフラインも絶たれていました。

しばらくしてから妻は職場から1時間以上かけて歩いて帰ってきました。明らかにパニック状態でした。

ひっきりなしの強い余震が続き、ヒビの入ったマンションにいるのが不安だったため、車中泊をしました。アウトドア派なので、寝袋を持っていました。

マンションの破損した貯水槽から水をくみ、スノーピークのチタン製の小さなポットに入れ、携帯プロパン燃料で湯を沸かし、家の冷蔵庫の奥に潜んでいた餅を砕いて入れて食べて生きるエネルギーを得ました。自分がアウトドア派でこんなに良かったと思ったことは初めてです。

地震2日後、自宅もその周りの店も、電気等のライフラインは寸断されたままでした。

仙台市太白区の長町から長町南周辺は、仙台でも比較的人の多い地区ですが、街には食べ物を求める人であふれていました。

ほとんどの店が閉められている中、いくつかのスーパーでは、露天で限られた食料品を手売りで売っていました。それらのスーパーでは、200〜300人の人が不安そうな表情をしながらも、整然と行列をなしていました。本当に日本人は、すごい人種です。

妻と街を彷徨していると、いつもは素通りする洋菓子店の看板に、手書きで「ケーキあります」と、か細い字で書かれた紙が貼られているのを妻が見つけました。

吸い寄せられるように中に入ると、停電した薄暗い店内で、きちんと制服姿の若い2人が女性がケーキを売っていました。
普段通りであろう丁寧な接客の中にも、笑顔は当然なく、表情には不安が垣間見て取れました。

売っているケーキは、火を通さなくても作れるクリームのタイプで、3種類あり、どれも330円で販売していました。

お釣りが出しやすいように、3個買い、「頑張って売ってください」と店員さんに声を掛け店を出ました。持ち帰ったケーキは夜中、懐中電灯の薄明かりの下で、妻と食べました。妻のちょっと緩んだ表情に何より安心しました。

ケーキは、体の細胞1個1個にエネルギーが染み渡る実においしいケーキでした。これまでの人生で食べたケーキの中で、ダントツでおいしいケーキでした。

驚いたのは、次の日、その洋菓子店の前を通りがかった際、女性の店員さんが窓を拭いている姿を見かけたことでした。

来客用の店のドアは閉まっていました。もう売れるものは売り尽くしたのでしょう。

次の食材の入ってくる見込みは全くない状況だったと思います。そんな中、窓を拭いていました。その時、彼女の唯一できる仕事が、おそらく窓拭きだったのでしょう。

周りの小売店は震災直後で当然ながら、ほとんど閉まっている状態で、街には建物の壊れた破片などがまだそのままになっている時でした。

震災3日後で物資を求める人が大勢、街中を放浪する中、震災とは無関係のように、いつもと同じように黙々と窓拭きしているその姿がある種の異彩を放っていました。

窓を拭く彼女の小さな後ろ姿に、早く街を復興させようという静かな意志が私の胸にぐわっーと伝わってきました。

今日で震災から1週間。

まだまだ被災地や原発付近では余談の許さない状況です。多くの人が、戦いの真っ只中です。

復興という言葉を使うのは早いですが、お世話になった洋菓子店のケーキの味とあの店員の後ろ姿を忘れないうちに、おそらく今後何十年も掛かるであろう復興への第一歩を自分なりに踏み出そうと思います。

震災から1週間経ったひび割れた自宅の部屋の中で、iPhoneにて記す。