夜食日記

分子調理学者。料理・調理のメカニズムを研究する大学教授。著書に『料理と科学のおいしい出会い』(化学同人)、共訳書に『The Kitchen as Laboratory』(講談社)など。分子料理・分子調理ラボ(http://molecular-cooking-lab.net)を主宰。関心は「食×科学×芸術」。

豚の国で豚肉を食べたら、

 北欧のある国で行われた学会に行ってきました。学会中いろいろ刺激を受け、やってみたい実験のアイデアがいくつか浮かびました。また、今までやってきた研究の方向性も間違いない確証を得ました。

 後は日常業務の中でこのやる気をどれだけ持続できるか、そして、いかに周りの人を巻き込むことができるかにかかっているでしょう。とにかく、新しい分野を勉強しなければならない必要性をひしひしと感じています。

 学会以外でもいろいろありました。食ブログなので食の話を一つ。

 訪れた北欧のデンマークは豚肉の生産が非常に盛んで、豚肉自給率が490%という凄まじい豚肉輸出国です。それなら、豚さんを食べずには日本に帰れないと、その国でのある日の晩ご飯に、豚肉といろいろ小皿料理のタパスが付いた料理をレストランで注文しました。


豚肉はプレートの奥の、鮮やかな色のビーツの刻んだものが載っているものです。

 皮がこんがりと焼かれた厚切りの豚肉を口に運ぶと、北欧の代表的なビール、カールスベア(日本名:カールスバーグ)とともに、食道を実に滑らかに移動しました。豚肉を二切れほど食べ、脳内幸福物質が最高潮に達し、三切れ目のカットした豚肉を大きくほおばった瞬間、突然「ガリガリッ、バリッ」という衝撃音が脳天に響きました。

 石かなにかを噛んでしまったのかと思い、口の中から異物を取り出すと、小さな白い破片で、最初は「豚の骨?」かと思いましたが、食事を進めていくうちに前歯の感覚に違和感を感じ、前歯を指で触ってみると明らかに欠けているのが分かりました。

 豚肉を食べて前歯が折れました。楽しい食事の風景が、一瞬にしてモノクロの世界に変わりました。

 豚肉をその後よく見ましたが、とくに硬い骨などはなく、付け合わせのビーツに石かなにか入っていたのかもしれませんが、原因は結局分からずじまいです。

 若い頃は瓶ビールのふたも栓抜きではなく歯で空けていたほど、歯の丈夫さには自信があったのですが、豚肉で前歯が欠けるとは思いもしませんでした。

 歯が折れて分かったことが二つあります。一つは、肉を食べるとき”前歯で全力でアタックしてたこと”、二つ目は、”何の疑いもなく食べ物に対峙していたこと”です。

 食べ物を食べるとき、口の中に”異物”を運ぶ訳ですから、本来食とは慎重に行わなければならない行動のはずです。実際、野生の動物たちはいつもそうしています。私も歯が折れてからというもの、おそるおそる食べ物を噛み締めざるをえませんでした。

 食べやすい、また安全な食品に慣れてしまった生活の中で、今回の前歯折れ事件は何かと考えさせるものがありました。鏡の前で、前歯の欠けた情けない顔を見るのはちと悲しいですが…。


折れた私の前歯の一部と、50オーレ硬貨。どちらも記念として持ち帰ってきました。