夜食日記

分子調理学者。料理・調理のメカニズムを研究する大学教授。著書に『料理と科学のおいしい出会い』(化学同人)、共訳書に『The Kitchen as Laboratory』(講談社)など。分子料理・分子調理ラボ(http://molecular-cooking-lab.net)を主宰。関心は「食×科学×芸術」。

今までで最も感動した食べ物

 土日、諸用で実家に行っていました。帰りに子供の頃に通った歯医者の近くを通り、ある記憶がフラッシュバックでよみがえりました。

 子供はみんなそうでしょうが、歯医者は嫌いなものです。あの機械音といい、独特の臭いといい、マスク人間といい、子供を怯えさせるのに十分な要素が詰まっています。

 私も大の歯医者嫌いでしたが、その気持ちが他人よりも強かったせいか、子供の頃、治療中に外に「逃亡」したことがあります。母親から「外に一目散に逃げていって、捕まえるのが大変だった」と聞かされました。それから、歯医者に行く度、その少年は診療台にネットで固定されて治療を受けるはめになりました。

 歯医者での絶望的な治療が終わったある日、母親が普段絶対に連れて行ってくれなかったファストフード店で1本のシェークを買ってくれました。その時のシェークの美味しさは脳天を突き抜けるほどの衝撃で、「こんな美味しい物が世の中にあるのか」と子供ながらに感動した記憶があります。その後、歯医者の後のシェークが定番となり、少年は歯医者で我慢することを覚えました。

 それから何十年も時が過ぎ、その間、たくさんの「美味しい」と呼ばれるものを食べてきました。素材の美味しさを最大限に生かした老舗の懐石料理、ミシュランで三ツ星を取ったレストランのフレンチ料理、海外での本場の料理、などなど。

 私の専門は食品学ですから、食品の知識も外での食経験も普通の人と比べて豊富な方だと思います。

 しかし、子供の頃、母親が買ってくれたファストフードの1本のシェークを超える感動にその後出会えていません。今後も、その感動を超える食体験はできないしょう。

 美味しい食べ物はたくさんあっても、感動する食べ物は、人生において滅多に出会うことができないものです。